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桶狭間の戦い 本体決戦で今川方に勝ち目なし 捨石作戦だったことを隠すため、九死に一生を得たと信長嘘を言う

 桶狭間の戦いで、丸根砦と、鷲津砦が陥落するシーンをテレビで見たことがあります。織田信長が窮地に陥った場面として、描かれています。しかし、この場面は、むしろ、織田信長の望んだ場面であり、むしろ、今川義元にとっては厳しい場面だと、私は思います。

 仮に、私が、今川義元であったとするなら、もちろん結果を知っているからこそ言えることですが、こんな危険な戦いはしません。

 なぜなら、丸根砦と鷲津砦は確かに陥落しましたが、今川側は山を登って攻めたために、織田側の倍の死傷者を出してしまいました。今川側の残った兵は、分散し、しかも、大変疲れていています。疲れた状態で、敵に背中を見せて、退却しなければなりません。それに、命をかけて戦う兵士一人一人にも都合がありますから、局地戦とはいえ、勝ち戦に浮かれて、略奪に走る兵士も大勢いたらしいのです。それが、農民兵にとっては、最大の戦利品だったに違いありません。大群といえども大将の都合だけで動くわけではありません。

 今川義元は、オーソドックスな戦いをする、面倒見の良い政治家タイプの武将でした。見晴らしの良い桶狭間山から、今川方の兵士が無事帰還することを見守りました。兵力があり、織田方は籠城するだろうと考えていますから、立派な大将を演じたかったに違い無いと思います。

 しかし、今川方の予想に反して、兵力が分散してしまったところへ、織田信長の本体が自軍の本体めがけて、突入してきました。2000対5000なので、数の上で、今川方がまだ有利に思えるかもしれません。ところが、信長軍は、鉄砲の数も圧倒的に多く、精鋭揃いで、農民兵とは違う戦いの専門家集団です。先鋒同士の戦いで、あっけなく、今川軍の先鋒は蹴散らされたに違いありません。その後に起こることは、今川義元にとって悲劇です。5000のはずの農民兵が我先にと逃げ始めます。一人でも逃げると集団心理で、大勢が逃げ出しますので、この状況での数は、もはや、あまりあてになりません。逃げ道も細い道なので、なおさら悲惨です。もしかしたら、逃げる役目を織田方から請け負っていた兵が今川方に紛れ込んでいたかもしれません。結局、今川方は、旗本300旗だけになってしまいました。旗本は、重臣なので、農民兵のように、すぐには、逃げません。しかし、300旗で耐えられるはずも無く、結局、今川義元はじめ、重臣達も全滅に近いひどい惨敗を喫することになります。戦闘に要した時間は、1時間から2時間程度でした。

 つまり、本体決戦では、今川方に勝ち目が無い戦いでした。最初の兵力を分散して、山の上の丸根砦や鷲津砦を攻め始めた段階で、もうすでに、今川方は優位ではありません。それも、織田方は籠城するだろうと思っていたなら、なおさらです。

 若き天才、織田信長は、勝つ自信があったことでしょう。信長は、清洲城を出陣するとき、今川義元逃がしてなるものかと、言ったそうです。今川方をおびき寄せ、戦いを始めさせるため、丸根砦と鷲津砦の守備兵をわざと少なくして、これらを捨石にしたのが桶狭間の戦いだったのです。しかし、捨石作戦というのは当時にあっても冷酷で、信義にもとる作戦であり、以降の信長の信用と人気を失墜させる危険性をはらんだ作戦であったため、戦後の信長の言葉は歯切れの悪いものでした。捨石作戦だったことを隠すため、九死に一生を得たかのような嘘を、戦後、信長自ら語ったに違いありません。

 この戦いは、信長にとって、宿敵今川義元を倒したということにとどまらず、先行勢力、巨大勢力として、戦国大名の中でも、優位な立場を手に入れた大きな戦いだったと思います。

 もし、桶狭間の戦いが無かったとするなら、仮に、今川義元が、政治的な戦いに専念をして、軍事的衝突を避けたとするなら、織田信長の名前は、後世に、これ程、語り継がれることは無かったと思います。

 実際に信長が勝った戦いであり、信長が先行する巨大勢力の地位を手に入れたこの戦いは、信長の方が望んだ戦いだったと思います。しかし、信長は、九死に一生を得たようなことを自ら言ったに違いありません。今川義元が、上洛を目指す途中、不運にも織田信長の奇襲によって敗れたというような誤った歴史が一時通説でした。信長自ら言った嘘が、その原因になったのだと思います。

 私だったら、家臣を捨石にして、助けに来ない冷酷な大将よりも、必ず助けに来る信義の厚い大将の家臣になりたいですね。

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